私の昭和40年代

 わが尊敬すべき唐沢俊一御大が、なにやらおもしろそうな企画を立ち上げようとしているらしい。その企画とは「昭和40年代を語る会(仮称)」。
 平成不況が終りを告げ、再開発の名の下に次々と新しいビル群が湧いてくる一方で、人知れず消えていく昭和の町並みに思いを馳せ、昭和という時代、なかんずく日本がいちばん熱く濃かった昭和40年代について語り継いでいこうというのが会の目的という。そのプレ発足イベントが9日、新宿・ロフトプラスワンで開催された。
 会の発起人は唐沢氏と、「昭和40年代マニア」を自任する若者代表(言い方がオヤジくさいな)・イケメン俳優の半田健人の2人。この日のイベントにはさらに賛同者として日本一惜しい国際秘宝映画監督・中野貴雄氏が加わり、あの頃の流行歌から、映画から、テレビ番組から、果ては場末の飲み屋の佇まいについて、わくわくしっぱなしの濃厚トークが展開された。
 トークのキモとして語られたのは、「昭和40年代と一言で言っても、人によってその期間は全く違う」という点。すなわち、40年から49年までととらえる人もいれば、41年から50年までという人もいる。あるいは、文化背景的にもうちょっと長めにとる見方もあれば、真の40年代といえるのは万博の開催までととらえる向きもあるということだった。
 それは言い換えれば、自分にとっていちばん熱かった昭和時代はここからここまでということではなかろうか。
 かくいう私の場合、生まれたのは昭和41年であり、子供時代=昭和40年代という感覚である。そしてその期間は、記憶がそれなりに残っている45年(1970年)から、中学に上がっていわゆる子供番組をあまり見なくなった(最近はまたちゃんと見ているわけだが)53年(1978年)あたりまでだと思う。53年頃というところで象徴的な例を挙げると、「機動戦士ガンダム」が放映されたのがこの頃で、それまでのヒーローもののロボットアニメとは一線を画する作品が出現したことでちょうど厳然たる線を引かれた感じがするのである。それ以降のテレビ番組にしても建物などにしても、たとえ30年近い月日がたっているものであってもどこか「最近のもの」という感覚があるのである。
 大ヒットした映画「オールウェイズ三丁目の夕日」を見ても、リリー・フランキーの「東京タワー」を読んでも、私自身、今ひとつ共感しずらかった。それは昭和30年代というのがあまりにむかし過ぎると思えたからである。だが、40年代となれば“こっちのもの”だ。40年代生まれの一人として、是非とも楽しい企画を期待するものである。