日の丸飛行隊よふたたび

 トリノ・オリンピックが始まった。表向きは「意外な残念な結果」が続いている日本勢だが、知り合いの複数の運動記者の見方によれば「確実にメダルが取れそうなのは女子フィギュアの3人のうちどれかとスピードスケートの加藤条治くらい」なのだそうだ。これら以外でメダルが取れればサプライズと思ってみれば、かえって安心してみられるというものだ。
 とはいえ、札幌の「日の丸飛行隊ワンツースリー」や長野での盛り上がりを知る身としては、ジャンプ陣のふがいなさは寂しい限りである。原田雅彦に至っては想定外の規定違反で失格。牛乳1本分足りなかったとは、雪印乳業の広告塔の名がなくというものだ。
 原田というと、個人的に思い出すのは94年のリレハンメル・オリンピックの際のことである。長野での感動のおかげでもうすっかり忘れておられる人も多いだろうが、長野の原田が感動のカリスマとなりえたのはリレハンメルでの団体戦での失敗ジャンプがあればこそである。
 その団体戦で日本が銀メダルに終わった翌日、前もってアポを入れておいた取材の仕事で、雪印の役員に面会した。当時私は経済部の記者をしており、取材の趣旨は同社の業績に関するものだったのだが、当然、話は前日の原田雅彦の失態にも及んだ。相手のI常務は「あいつはいざというところで度胸がないんだよな」と広告塔のふがいなさをエラそうに嘆いたのが印象的だった。ちなみのそのI常務、その後社長にまで出世したのだが、2000年の集団食中毒事件で逮捕された(テレビにもたびたび登場したので見覚えのある方もおられよう)。
 話がそれ気味だが、そんな自社の役員にも叩かれながらがんばってきた原田だけに、こんなふがいない終わり方(バンクーバーもでえるのか?41歳になるが)は残念この上ない。
 もう一つ、ジャンプがらみで忘れられないことがある。
kasaya
 92年12月のこと。やはり企業業績に関する取材で、ニッカウヰスキーの役員にアポを取り、表参道の同社本社を訪れた。受付の前で待っていると奥から広報担当の人がやってきた。「広報部長の笠谷と申します」と挨拶とともに名刺を交換した。広報にしては妙にぎこちなく、記者慣れしていない様子の、背がすらっと高いのが印象的な中年男性だ。受け取った名刺を見ると「笠谷幸生」という名前(写真)。どこかで聞いたような。
 一通り取材を終え、記者クラブに戻りながら、どこかで聞いたことのあるその広報部長の名前が気になってならない。ふと、札幌オリンピックの金メダリストと同じ名前であることを思い出した。クラブに戻り、同僚の先輩にその話をすると、「それ本人だよ」といわれあ然。図らずも、あの日の丸飛行隊の隊長と「普通の人扱い」で会話を交わしてしまったのである。
 後日、テレビで笠谷氏のインタビューを見た折、確かにあのニッカウヰスキーの広報部長であることを確認した。だが、20年も前にテレビで見た姿から、いざ本人を目の前にしたところで気付かないのは当たり前。まして、スーツ姿の日の丸飛行隊では。