懐かしけりゃいいってものじゃない

 昭和レトロブームというやつは未だに続いているらしい。年がら年中ウルトラマンだの仮面ライダーだのキカイダーだのといっている私にとっては、親しみは感じても、“なつかし感”が鈍っているのか、少々食傷気味になりつつある。先にヒットした「always三丁目の夕日」や、現在放送中のNHKの朝ドラ「芋たこなんきん」を見ても、「またか」という印象が先にきてしまう。それでも、できかけの東京タワーやウルトラマンの歌を歌っているシーン、オバQの落書きなどを見るとついつい引き込まれてしまうのは、時代考証を大事にしている作り手のメッセージの力なのであろう。
 そんな昭和の子供をくすぐる予告に引き寄せられて、映画「地下鉄(メトロ)に乗って」を見た。
 いつものように使っている地下鉄の駅から地上に出てきたら、そこは40数年前の東京。そこで自分の親がどんな生き方をしていて自分のことをどう考えていたのかを知り、わだかまりが解けていくというのが大まかな筋なのだが、脚本の問題なのか演出のせいなのか、どこで感動したらいいのかわからないまま、気がつけばエンドロールが終わっていた。
 まず、冒頭に出てきた主人公の恩師の位置づけがさっぱりわからない。重要なキャラクターのように思えたのだが、メインストーリーのどこにも絡むことなく、ラストでもう一度出てくるものの、何のために出てきたのか結局わからなかった。
 最初の過去のシーンから現実に戻った後、主人公の職場で主人公の上司が口にした「罪と罰」という言葉が、物語のフラグとなるのだが、いかにもとってつけたようなフラグで、全く印象が薄いまま。
 肝心のクライマックスでも、ヒロインがとった行動の動機が全くわからず、泣こうにも泣けない、つっこもうにもつっこめない、ものの見事に中途半端なシーンになってしまっていた。主人公の父親とヒロインの母親の関係がわかって、ヒロインが感激するまでの流れはよかったのに、何でその流れを木っ端みじんにするような結末を用意するのか、作り手の考えが全く見えなかった。
 そして、何より不満だったのは、昭和なつかしもののキモであるはずの時代考証の詰めの甘さ。まず冒頭、丸ノ内線の車両を再現するのに、実車とは全然形が違う(扉の数も大きさも違う)東西線を走っていた車両を持ってきて色だけ塗ってごまかすという安直なやり方。東京メトロの意気込みはわからないではないが、精巧なCGを使った方がよかったと思う。
 それと、電気屋の前のテレビで日本シリーズを見て盛り上がっているシーンがあったが、この年のカードは阪神対南海。オリンピック目前の東京で、関西同士の対戦はあまり盛り上がらなかったはずである。
 また、主人公の兄が事故に遭うシーンで出てきた救急車。あの車両は1970年代中頃のもので60年代には存在しない。
 そして何より、堤真一演じる主人公の年齢。パンフの説明では43歳となっているが、東京オリンピックは1964年。64年のシーンでの主人公はどう見ても中学生か高校生だ。現代のシーンが2006年とはひと言も言っていないのではあるが、素直にそうだと考えれば、時代設定自体に10年以上のずれが生じる。
 結局、なつかしっぽいシーンだけをとりあえず並べてみただけで、どれも中途半端。先に述べたような作り手のこだわりが伝わってこない。せっかくの「地下鉄」というユニークなツールなのだから、持って行きようによってはこの何倍もおもしろい作品ができそうに思えるだけに、実に残念な作品だ。原作者の浅田次郎が、なぜこんな作品にOKを出したのか、それがこの映画最大の謎である。